余裕を持って行ったはずが、
それでも告別式の日は丸1日がかり。
お焼香したり、読経を聞いたり、お骨を拾ったり。
色々なエピソードにおじいちゃんらしさを感じて、
悲しい中に不思議と心の温まる1日でした。
さすがに夜には親族も疲れて、
仏壇に収まったおじいちゃんに
「(お経も)もう聞き飽きたやろ」って。
宗教を責めるわけではないけど、
各種の儀式は既に型が決まっていて。
元の純粋な意味合いや気持ちを
段々離れて、形式だけが残っていくようです。
それが故人と真剣に向き合うことを
邪魔しているようなときもあって
少しだけ煩わしいと思いました。
どんな偉いお坊さんの供養よりも、
心から悼んでくれる友人の方が
おじいちゃんも遥かにうれしいことでしょう。
ふと座りながら、高村光太郎も似たような
詩を読んでいたなぁと思い出しました。
***
荒涼たる帰宅
あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人體の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。
***
ちなみに、おじいちゃんは生前、葬儀の音楽には
「カルメンはさすがに明るすぎるので、
くるみ割り人形を」と言っていたらしい笑
ほんとうに面白い人です。
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